留年学生

留年してしまった理系大学生の奮闘記です。

留年についてPart1

久しぶりの投稿です。

前期の授業が終わろうとしていますが、また今期も単位はほとんど取得できなさそうです。(まず終わっていないのにブログを書いている時点でお察し、、、)

このブログを書いている僕は、理系の単科大学で現在2留しています。しかも卒業年次ではなくいわゆる中途留年というやつ。留年した学生は連鎖的に留年するといいますがまさにその通りで、1回目の留年をした年は精神的にも追い詰められ、退学して他大学の受験などまで考えていたため、結果としてほとんど大学に行かなくなり、結果として2回目の留年をしてしまいました。そして心機一転挑んだ今年ですが、3回目の留年の危機に立たされています。今回は2回の留年を通して感じた、留年してしまう人の原因。そして今考えている対策について書こうと思います。これが少しでも留年している人の心の支えになったなら幸いです。

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‪どんな家族や友人や恋人に恵まれていても結局は自分は1人だし残りは他人でしかないし1人で生きていかなきゃいけない‬。

タイトルに内容が全て書かれてしまいました。

 

子供の頃は、親は他の大人とは違い、自分と繋がっている。血縁関係があるし長年一緒に暮らしているから、他人ではない。自分の事をわかってくれている。そう思っていました。

だけど最近そんな事もないことがわかりました、これは別に悪い意味ではなく、子供から大人になる段階において、現実を見る力がついたという事です。

親とは遺伝子も受け継いでいますが。それだけ。顔は似ているし、性格も似ているかもしれない。けどそれだけ。僕は親が子供の頃、何をしていたのか知らないし、学生時代をどのように謳歌したのかも知らない。親がどのように考え、何を感じ僕を育てたのかも、知らない。親からは様々な事を感じる。感じはするけど、"わかってる"わけじゃない。なんとなく感じるだけ。僕たちはフィクションの中の"家族だから"というような謳い文句で家族だから何か特別なものがあると勘違いしてしまうが、実際はそんな事はない。親だって僕のことをわからない事もたくさんあるし、僕だって親のことでわからない事はたくさんあるし、お互いすれ違う事もある。つまり、お互い1人の人間で、不完全なのだ。だからこそ想い合うし、それこそ家族だからすべき事である。

これは親友や恋人との関係でも同じである。むしろ親友や恋人との関係ではこのような事が普通に意識されるかもしれない、どちらかといえば家族だって他の関係性となんら変わらないという事を、最近思う。

 

どんなに辛くても、苦しくても、他人が全部自分の気持ちを理解してくれるなんてありえない。だからこそ、他人に期待しすぎてはいけない、自分の事を理解してくれる人を大切にするべき。たとえそこにすれ違いがあったとしても。逆に、自分が他人のことを完全に理解できているなんていうのは思い上がり。完全にはわかる事はあり得ないと思いながらも、理解しようと思い続ける。それが大切なのではないだろうか。

思考の海

夜は思考が溢れます。

1人で寝ようとしていると、今日思ったこと、不安な事、明日はどうしようか、朝起きたら何をしよう、そう言えばあれ調べとかないとな、、、、

昔は何も考えれず寝れてましたがここ一年くらい思考に埋もれて寝れません。心が落ち着かないというか。滝行でもすれば良いんでしょうか、、、

面白い事がしたい

自分は基本的に面白い事を考えて実行をしていたいと思っている。

自分にとって面白い事とは、主に旅行や友人と遊びに出かける事である。とはいってもそれはありきたりなことをする訳ではなく、他の人がしないような企画だったり、プランなどを使わずに1から考えるのが好きなのだ。そしてこのような企画をする上で大切だと思っているのは基本的には直感に頼り、予約などの行動を迷う前に行うという事だ。もちろん重要な事やお金が絡む事などは、落ち着いて考えるべきだが、企画面などは思いついて、それが楽しい、面白いと思えばその感性を信じて実行に移すという事が大切だと感じる。実行しなければ何も始まらない、自分の感性を信じて一歩踏み出すのが大切なのではないだろうか。

他人に期待しすぎない

自分が余計なストレスを溜めない方法として、「他人に期待しすぎない」というポリシーを持っている。特に集団行動などをする際にはどうしても不快な言動をする者や、ウマの合わない者も出てくる。だがそこで衝突してもしょうがない。そこで余計なストレスを感じない為に、そもそも他人なんかに期待しなければ良いと思っている。例えば任せた仕事を全然やってくれない人がいたとする。だがそもそもその人に期待を寄せていなければ不快に思うことはない。やってくれないだろうくらいに思っておけば自分でリカバリーして、事なきを得られるだろう。また、自分や周囲に不快な言動をする者がいたとする。だとしてもその相手が周りを気遣えるだろうという期待すらしなければ、どんな言動をしていても気にならないだろう。

信頼を寄せる人に心無いことを言われれば傷付くが、全く赤の他人からの誹謗中傷は気にしなければ気にならないものだ。これと同じ理屈で、自分を不快にさせてくるような他人には、そもそもなんの期待も信頼も寄せなければ良いのだ。

 

人のふり見て我がふり直せ

タイトルのこの言葉は非常に深いと思う。

ことわざというのは日本に古くから伝えられているだけあって、当たり前だけど意外と忘れがちなこと、わかっているようでちゃんとできてないことなどを的確に言い表しているようで素晴らしいと思う。

何かを批判する。そのような時に忘れてはならないのは自分も同じような批判の目に晒すことじゃないだろうか。ただ相手だけを見て批判する。それでは一方的な議論すぎる、自分はどうなのか、批判していることを自分はしていないのか?

その時はしていないと思うかもしれない。だが、本当にそうか?自分はしてないつもりでも誰かはされていると感じているのではないか?自分がしている批判と同じ批判の目を自分に対して持つ人が周りにいないとは限らない。

 

行動を起こすことの大切さ

こんにちは。なんだかんだ身バレが怖いのでハンドルネーム変えようと思います。

 

さて、意外とブログ毎日書くのって難しいですね。割と書きたいことはあるのですが、タイミングやら内容がまとまらなかったりしてなかなか書けませんでした。

 

で、今回はそもそもこのようになにかを継続したりする上で大切だと最近感じることを書きます。

 

自分は物事を継続することが本当に苦手で、三日坊主どころか1日で終わってしまうこともよくあります。大学での勉強は継続的に積み重ねるのが大切で、継続が苦手な自分にはかなり苦痛です。結果として単位を大量に落とし2回留年しています。そして僕のような人間が継続が苦手な理由として、以下のようなことが挙げられると思います。

・まずやる気が起きない、最初の一歩が踏み出せない

・やるならちゃんとやらなくてはいけないという考えが重圧になり投げ出す

・毎日やるという先のことまで考えすぎて面倒になる

とりあえず三つ書きましたが、結局は全部同じようなことだと思います。つまり"最初の行動が起こせない"んです。どんな面倒なことでも、最初の行動を起こしていけば意外とスラスラ進むことはよくあると思います。行動を起こさなければ進歩は0。だけどクオリティは低くても行動を起こし続けていれば1歩ずつでも進めているわけです。例えば必修の科目の勉強、直前にやっても無理だから早めにやっておきたい、けど例えば毎日30分やるって考えたら気が重くなります。何でとりあえず成果はほとんどなくても教科書を開いて問題を1問だけみる。から始めれば少しは行動が起こしやすくなるんじゃないかと最近思っています。まあ、前からわかっていたと言えばそうなんですが何となくわかっているのも実体験から感じ取るのではわけが違います。

なので、ブログも短くても内容がごちゃついててもいいので毎日書いていけたらなーと思います。ツイッターは毎日何十ツイートかしてるんで余裕だと思いますね。。。